ノエル・ボールドウィン
私は、パトリックのための介護から始めます。
私は、ノエル・ボールドウィンです。小児ホルモン治療の結果により1992年12月14日にクロイツフェルト・ヤコブ病(以下CJD)で死亡したパトリック・ジョン・ボールドウィンの父親です。
最初に、私はみなさんに今日ここで話す機会をくださったことに対して感謝の意を述べます。私はイギリスでCJDにより愛する人を失った家族へ、お悔みを持って来ました。
私の妻ジャネットが、今日皆様と一緒すごす事ができない事を謝罪し、彼女からのお悔やみを申し上げます。彼女はリュウマチによる高度の関節炎があるために長時間の飛行機旅行が負担であるため来日できませんでした。
私は、パトリックの症例を通しCJDの我々の正義の闘いについて語るために来日しました。
パトリックは1962年2月17日に生まれました、出産時の彼の体重は7ポンド2オンス(3.2Kg)であり、まったく健康な新生児であった。1年の期間にわたって我々が気づいた異変は、パトリックの食欲は良好であるが成長が他の子供と比べると遅いということでした。
我々はパトリックと医師を訪問しました。彼はパトリックを検査し、彼について異常は検出されませんでした。1963年10月にパトリックはグリンズビのスカーサロード病院(Scartha Road Hospital Grimsby)に検査入院しました、食欲はありましたが成長(発達)していませんでした。検査入院の結果は、異常無しでした。
その後、パトリックは病院を訪問せず、彼は健康な少年でした。彼の身長は小さいけれどそれに対して悩みませんでした。彼はフットボール、クリケット、魚釣り、や色々なスポーツに興味を示しました。パトリックは常に非常に幸福な少年であり、ゲインズボロのキャッスル・ヒルズ学校(Castle Hills School Gainsborough)に通いました。
1976年中頃、校医は私の妻ジャネットと私自身を呼び出し、パトリックの身長に関して心配である事を我々に話しました。彼女は、小児成長ホルモン治療を専門家の教授がシェフィールド子供病院にいることを我々に知らせてくれました。
我々は、小児成長ホルモン治療がある事を始めて知り、シェフィールド子供病院から教授がパトリックを見てくださるという予約通知をいただきました。パトリックは、治療が有益かどうか確認するために検査入院しました。パトリックは、1977年10月(15歳で)治療開始しました。
彼は、週3回の注射(治療)「月、水、金の3日間」をゲインズボロのジョン・クウプランド病院で受けました。もしも、パトリックがシェフィールド子供病院に週3回治療のために通わないといけないとすると往復150キロの道のりになるのです、それを節約するためにゲインズボロのジョン・クウプランド病院で治療を受けることにしました。
両親としての我々は、この治療に関係する危険性は知らされませんでした。我々に関しては、この治療は、試験的治療であるということは疑いもしませんでした。
パトリックは、ゲインズボロのローズ・ブラザーズで見習いをしました。
彼は、1983年に英国海軍に入隊しました。順調に昇進し、英国海軍の生活を楽しみ、彼は主要な海洋エンジニアであり、将来は非常に明るく昇進する予定でした。1991年8月まで問題なく健康な青年でした。パトリックの健康問題は持続性の咳嗽にはじまり、1991年8月に彼の下肢(足)が不安定になりました。
1991年10月に、彼はポーツマスの英国海軍病院ハズラー(Hazla)に入院しました。
11月後半に妻と私自身が初めてパトリックが病気である事を知り、彼は、我々に心配を掛けたくなかったので病状を隠していました。
パトリックは1985年に結婚し、2人の娘、ザラとニコラ、をもうけました、でもCJDの症状が現れる前に離婚しました。
次の朝、我々がパトリックの病状が悪化したとわかったあと、我々はポーツマスまで車で行き、到着すると同時に、我々はパトリックが歩くことができるとわかるが、非常に不安定で、彼が歩く時には、壁に沿っていなければ歩けませんでした。さらに、転倒した場合、上肢が不安定であるため起きる事が不可能であった。歩く時には平衡感覚を保つために手を上げ歩いていました。階段を上がるときは、手と膝をついてハイハイして上がり、降りる時は座りながらしか降りる事はできませんでした。
パトリックは視力も悪くなり、物が2重に見え始めました。眼帯を1日おきに左右どちらかの目にしてすごしました。持続性の咳嗽がありました。
1991年12月は毎週木曜日と金曜日は妻ジャネットといっしょにパトリックを英国海軍病院に訪問しました。この期間彼の病状は悪化し、英国海軍病院で知られている全ての病気の検査やレントゲン検査をしました。結果は特定の病気を示す事はありませんでした。我々は、全ての検査を終えたとき、家に連れて帰り彼を自宅で介護をして良いか英国海軍に聞きました。海軍はこの件に関して同意してくれました。
1992年2月21日に家につれて帰るためにポーツマスに行きました。もうその時には車椅子が必要でした。さらに個人の衛生管理はできず、一人でベッドから起きたり寝る事もできませんでした。意識や聴覚は問題ありませんでしたが、彼の会話能力は悪化していました。
車椅子生活が不便なことは、更衣、排泄による移動時、飲食の際に他人の援助が必要であったことです。歯を磨く事はでき、食欲もありました。軽度であるが下肢には痛みが少しありました。
家族全員で順番にパトリックを車椅子で散歩に連れて行き、さらに、彼の友達も彼を連れ出し、たまには彼の好みのクラブに行たり、フットボールの試合に行きました。
1992年3月9日には、手の振るえが増し、コントロールする事ができず、話す事や飲水することが困難になりました。
1992年3月12日、状態悪化、疲労感がありました。
1992年3月14日、良好。
1992年3月17日、パトリックは尿バッグを使用し(排尿システム)、毎週日曜日ごとに交換する事になりました。これは、よく使用できませんでした。
以降、直接人手により世話をしました。さらに、排泄時にもれてしまうので、寝巻きも交換が必要になりました。
1992年3月27日、医師によって尿道カテーテルが設置され、以降最後の日まで良好でした。この日から時々パトリックの血液は濃くなり、異物が現れ持続しました。
1992年4月10日、パトリックはほぼ5日間便通(排便)はありませんでした。看護婦により摘便が行なわれました。
1992年4月16日、摘便はパトリックの死亡までよい効果を上げました。
自宅でパトリックに理学療法を行うため、ジャネットと私はジョン・クウプランド病院に行きました。なぜならば、彼の通院による負担を軽減するためでした。
我々は、さらに、吸引機の使用法も学び、パトリックの口腔内の分泌物や異物を取り除く事もしました。ロール板(turn table)を使用してベッドから椅子、椅子からベッドへの移動が可能となりました。また、昇降機を使ってベッドから彼を移動させました。
1992年5月には、パトリックは飲食ができなくなったため胃瘻を造設し、飲料水、栄養、医薬を投与をおこないました。
1992年6月には、嚥下や咳そう反射がなくなしました。
1992年12月4日月曜日の4時半にジャネットに呼ばれ、パトリックが死亡しているようだといわれました。私はパトリックの体温と脈拍を確認しました。体温は暖かかったが脈はなく、しだいに体温を失ってきました。私は医師に電話をかけました。医師は到着後すぐにパトリックを検査し、彼の死を確認しました。
1991年後半に我々はパトリックの病状と疾患に気がつきました。政府の役人と公共医療に関する人々は、我々と我々の医療団に対しては話をしてくれなくなりました。
何が起きているかも解らずにしばらく活動をつづけました。結局、私はトウデイ新聞社の記者アラン・ワトキンズ氏のような人びととあいました。アランは、CJDに関する情報を私に提供してくださり、非常に助かりました。
我々の弁護士、デイビッド・ボディー氏と事務所の皆様には、CJDの情報に遅れをとらないように助けてくださいました。私もまた、集めた情報を彼に提供しました。私はボディー氏と共に長時間いっしょに活動し色々な資料に目を通し、差し迫った訴訟への準備をしました。
この時期、ジャネットと私自身にCJDに感染してに苦しんでいる家族から連絡があり、我々が集めた情報を全て提供しました。いまだに連絡は取り合っています。私は我々同様にCJDの情報不足で苦しむ家族を見たくはありません。
私は、愛する家族の一人をCJDで亡くす経験がない方は、この情報不足の病気による恐ろしい死に方は理解できないと思います。この場に出席している皆様は私が言っていることを理解されると思います。
ハラシュ・ナーラン博士と連絡を取ってからこの数年にわたって、ナーラン博士は私と私の家族を助けて下さりました。初めて接触した時にはCJD と狂牛病(BSE)に関して解りやすく説明してくれました。
彼はこれらの病気の研究を政府のためにやっていました。彼はこの病気の危険性や問題点に関する情報を流したためにやめさせられました。その様な問題が現在起きているので、情報を市民に与えたのです。彼の本の中でその関連のことは述べられています。大変残念な事は、ナーラン博士がこの研究を持続する事ができなかった事です。もしも研究を持続していたらCJDの治療法が生み出されていたかもしれないのです。1993年には彼は尿検査法を生み出しましたがそれも、認められなかったのです。
我々はCJD協会を設立しました、この協会はNPOで運営されています。この協会の目的はCJD/BSEやその他の病気の研究に関するの情報提供と話し合いができるように地域グループの設立することです。
情報はインターネット、電話か郵送で提供されています。人々はこの協会と電子メール、ファックスか郵便で連絡できます。
会費は10年会員は10ポンドすなわち1年1ポンド、家族会員は10年間で20ポンドである。その他の費用はかかりません。郵送料は無料です。協会で働いている人々は全てボランティアです。
会員は国際的であり、他国からの取り合わせもあります。この事を述べたのは、もしも日本でこの様な事業を設立するのでは助ける事ができるかもしれないからです。しかし日本ではこの様な事業団体はもう設立されているかも知れません。
パトリックが1992年2月21日に家に帰った時、彼がCJDであることを初めてしらされました。英国海軍(病院)は我々に告知しました。しかし、彼らはこの疾患について何も知りませんでした。そして、彼らは国営衛生部(National Health Department)からの情報と医学の援助を得ることが非常に難しいとわかっていました。1992年1月に英国海軍(病院)はパトリックをロンドンの女王広場にある神経疾患のための国立病院に送りこみました。英国海軍(病院)は検査の結果をこの国立病院から得る事は非常に困難でした。彼らはCJDの診断をつけましたが、ジャネットと私には1993年11月の審議までこの情報を与えられませんでした。
その時に我々が公式にパトリックの死亡原因を聞かされました。政府は我々の事を知りたくなく、さらに、情報を我々に与えたくなかったのです。彼らは、英国の牛肉の輸出を保護して、一般市民に対してはCJDとBSEのどんな情報でも与えたくなかったのです。
我々の医師団ミスター・アンド・ミセス・プロクターは、厚生省(National Health Department)から医学的な援助をもらえませんでした。さらに、ゲインズボロの夜間看護サービスも厚生省から医療援助がありませんでした。ただし、彼らはすばらしい医学的ケアをつくし、パトリックをできるだけ快適に、さらに、できるだけ疼痛から開放した生活を最後の日まだ過ごす事ができました。それも、当然与えられるべく医療の援助なしで行ないました。
パトリックは彼自身が死ぬ事を知っていました。その件に関しては、彼がまだ話すことができる間、我々としばしば話し合いをしました。パトリックの遺言を作成するため、弁護士にポーツマス近くのハヴァントにあるパトリックの兄弟マイケルの家を訪問してもらいました。パトリックはその後、気分が楽になりました。彼は私に、「自分が死ぬ事を知っていると色々な身なりや準備を整える事ができるね」といいました。
パトリックは治療に関して、彼にこの治療を始めた人々がこの治療には問題がある事実を知っていても悪意を抱きませんでした。ただし、彼は私になぜこの様な事が起きたのかを解明してほしいといい、彼の二人の娘、ザラとニコラのために戦ってほしいといいました。この件に関しては、私が死ぬまでする事を約束しました。
我々はパトリックが悪夢のような恐ろしい死をむかえるのを見届けました。我々の地元の医療関係者以外は我々が存在する事を知りたくなく、我々が知識不足である、この人間が作った病気に関しては医療知識や医療的援助も与えてもくれませんでした。
1992年2月にパトリックが家に帰って来た時、私はリンカーンシャー・エコー新聞社に連絡を取り、彼らはパトリックの問題の件を記事として取り上げてくれました。私が新聞社と連絡を取ったのは、パトリックの生活を過ごしやすくするためのCJDに関する情報や医学知識を、政府機関からはもらえなかったからです。さらに、パトリックの治療や介護に関する医師や看護婦にもCJDの情報や医学知識を与えませんでした。この様な事が社会で起きる事は、私は不名誉なことであると感じました。
地元の新聞にパトリックの件が記事として取り上げられてからヨークシャー・テレビ局に連絡を取りました。テレビ局はパトリックの件を取り上げましたところ、パトリックの問題とCJDに対する大きい関心を作る結果となりました。問題はできるだけ社会に対して隠されている問題でした。これが示された後、ヨークシャーテレビ局はベッドの中のパトリックを撮影し、それをテレビに流しました。
その後、我々は色々のテレビ局からパトリックの件を取り上げたいという連絡を受けました。その中には、「ニュース・ナイト」、「ワールド・イン・アクション」や数多くのテレビプログラムとドイツのテレビ局もありました。さらに、全国版の新聞社、日曜版の新聞社や数多くの外国の新聞社と雑誌社からも連絡がありました。
私はパトリックの闘病中に彼の事を記事にしたいというメディアの記者全委員と話しをしました、例としては、リンカーンシャー・エコー新聞社、ヨークシャー・テレビ局とリンカーンシャー・ラジオ局がある、さらに、数多くのラジオ局が彼の記事を取り上げにきました。私は、メディアの記者をけっして断った事はありませんでしたなぜならば、政府関連機関がどのような悪い事をしている皆に知ってもらいたいからでした、政府の役人はこの様な事を嫌がりました。
私はこの場で一言申し上げたいのです。パトリックの闘病中や彼の死後に色々な人や色々な場所で話しましたが、我々は決してお金の請求はしませんでした、さらに受け取りもしませんでした。
始めにメディアから連絡を受けてこの件に関して話しをしてくれないかと頼まれた時には私は先に彼らがCJDに関してどのような情報を持っているか聞きました。もしも無い場合には彼らにCJDに関して調査や調べてから再連絡を取ってから話しをしましょうといいました。
その理由は、彼らは情報源を持っていて情報を得る事ができるからです。しばらく経ってから彼らから連絡が来ます、その時は、彼らは情報収集に成功した満足感がありました。私はこの方法によってかなり多くの情報を得る事ができました。
二つ目の理由は、私は決心した事があったからです、それは、そのうちに英国政府を起訴するつもりだったのです。その時には新聞に書かれている記事が真実であって正しい事である事を確認しておきたかったのです。なぜならば、我々は政府の役人に観察されていたのです。同じく、我々が注目を集める事を避けたかったのである。
さらに、私は間違っている情報を新聞社に書かれる事をしたくなかったのです、それによリ我々の弁護団にとって難しくしたくなかったのです。テレビ局は、ライブ放送であったため問題はありませんでした。さらに、ラジオ局もその時期にはコントロールができた(可能であった)のです。
私は、CJDについての若干の知識を持った弁護士を探していました。私は、デイビッド・ボディー弁護士、シェフィールドのアーウィン・ミッチェル弁護士事務所のパートナーであるデイビッド・ボディー弁護士と会いました。彼は彼の数人の依頼人がCJDで亡くなっていたのです。1991年12月に、私はシェフィールドの事務所を訪問してボディー氏に会い、彼と非常に長い議論をした。ボディー氏の依頼人が亡くなった時彼らの法律上の扶助は止められました。その時点でそれらのケースを裁判に持ち込む事は不可能でした。
私はパトリックに代わって法律上の扶助を申し込むために、申込み用紙を書き込むためにボディー氏の所に12月の後半に戻りました。1992年1月5日にロンドンで申込み用紙を受け取りました。
この申請に対して多くの問題が浮上しました。それは、英国政府がパトリックに法律上の扶助を受けさせたくなかったからです。彼が受けることになったら、このケースを裁判に持ち込む事が可能になる事を恐ろしく思っていたからです。
法律上の扶助は1992年10月22日に長い闘いの後、最終的に与えられました。そして、それを受けるまでの道程は非常に長い時間がかかりました。私がパトリックの代理で法律上の扶助の申込み用紙を書き込んだ時にパトリックの2人の娘に代わって、彼が死んだ後に送るために法律上の扶助の請求をする申込み用紙を記入しました。それにより、このケースは裁判を続ける事が可能になるのです。
パトリックの問題(点)は子供を持っているCJD患者が亡くなってない事です。パトリックが死亡した時、我々が彼の死亡から2週以内で2人の女児に代わって法律上の扶助を得る事ができました。もちろんそれは、色々と社会的な注目があったからです。
私は1991年12月から多くの時間や日をボディー氏の書類を書き込む作業をしていました。それも、政府弁護士から出てきていた書類の量に驚きました。私はその時期フルタイムの仕事をしており、さらに、我々は大半の夜はパトリックの介護に費やしたことをのべたいのです。
1992年半ばにボディー氏とロンドンの会議に一緒に行きました。その会議には、CJDで苦しんでいる依頼人を持つ数人の弁護士が出席しており、そのうち何人かの弁護士の依頼人はCJDで亡くなっていました。その会議で我々が運営委員会を作り、この運営委員会はプレス・リリースにおいって情報を与える役を補いました。その他の人は、社会の人々に会ってインタビューする責任がありました。全員が何かの役割分担がありました。
さらに、その会議で全員一致でシェフィルドのアーウィン・ミッチェル弁護士事務所とスウォンジーのスミス・レベルィ弁護士事務所がCJDの依頼人を代表して法廷で闘うことを決めました。それは、このような大きい(重要な)ケースを小さい経験不足の会社(弁護士事務所)が法廷で依頼人のために闘っても負ける可能性もあるからです。それは、依頼人全員の負けになるかも知れません。
個人別の事務弁護士を持つ事も可能であり、多くの依頼人の事務弁護士はボディー氏とレベルィ氏と連係を依頼人の代わりにする役目をしていました。これは、有効でした。
1991年12月から翌年の12月14日、パトリックの死まで、私には厳しい道程でした。パトリックの介護や世話、メディアへの耐用、弁護団と共に連絡を取り合い一緒に働く事は大変でした。
パトリックが亡くなった時、我々は検死解剖をお願いしました。検屍官は我々の解剖希望の理由に同意しました。その理由はもしも検死解剖が行なわれなかった場合、パトリックの死はCJDの予測だけになり、パトリックがCJDにより亡くなった証拠(証明)が無くなってしまうからです。
パトリックの審理において我々が再び多くの問題を抱える事となりました。日にち(日付)がキャンセルされたり(取り下げられたり)、その理由は、重要な証拠を持っている人々が決して話さなかったりその時に初めて話す事になったり、もしくは、その人々の中の一人が国内にいなかったりしたからです。
結局、パトリックの審理が陪審によってリンカーン城刑事民事裁判所で1993年11月3日と4日に開かれました。パトリックの審理で与えられる評決は、我々が欲しかった評決であった医学的偶発事故でした。我々は現在政府の上で意図された起訴の通知を届けることができました。
パトリックの審理の後、私は、できるだけ多くの情報を集めるためにCJDで死亡した人々の他の審理に出席しまた。
我々が政府大臣と議会の議員に向かって開いたいくつかの説明会(briefing)で、私は話す事ができました。説明会はは党派を超えて(cross party)、非政治的でした。それらの会合には新聞社とテレビ局も出席しました。我々は、我々の闘いのため、これによって多くの注目を得ました。会議を通して我々は下院の議会にこの問題を持ち込む事ができました。小児成長ホルモン治療を受けた人々によるCJDによる死が議会で討議されたという事は初めてでした。このような件が政府大臣と議会の議員によって討議されたという事は我々のケースに非常に役立ちました。
多くの努力の結果、1996年4月16日に我々のケースを裁判に持ち込む事ができました。モーランド判事が初め17のヒト成長ホルモン(hGH)治療を1958年から1985年の間に受けた若者たちのCJD(クロイツフェルト・ヤコブ病)症例の中 8例を調べました。17例中、16例は、この致命的神経学的疾患(病気)で死亡しました。厚生省(Department of Health)がこれらケースの公共の問い合わせを拒絶した後で、起訴が始められた(オーストラリアにおいて、公共の問い合わせは、保持されました)。さらに4つの症例が裁判中に加えられ全体で12の初見ケースになりました。
これらのケースはロンドンのロイヤル・コートの司法省で行なわれた。裁判は5週間半続きました。私は、自分自身の費用で法廷傍聴に毎日、ロンドンへ行きました、その理由は私が医学研究上何が起きたかの完全な知識を得たかったからです。
裁判の判決は1996年7月19日(金曜日)に下されました。モーランド判事は、厚生省の過失を認めました。判事は、医学の調査委員会(MRC)が感染の本当の危険度を知った時には、より速やかに、行ってきたことよりもさらに可能な手段を、厚生省は原則としてとるべきと評決しました。感染の危険度を1976年10月にアラン・ディキンソン博士[羊の病気、スクレイピー(SE)の専門家]により知らされていました。判事は1977年7月1日には十分なCJDの知識があったと判断し、それ以後は新しい小児がヒト成長ホルモン(hGH)治療プログラムには加えられていないとも判断した。1977年7月1日の前にヒト成長ホルモン(hGH)治療は中止されていたから、その後の症例は認めない事とすると決断しました。
法廷判断後、我々は代償期間から疎外された人々のために闘い始めました。法廷判断後まもなく、私とボディー氏とデイビッド・ヒンチリッフェ閣下(MP)は保健省担当ジョン・ホーラム政府大臣と下院で会議(会合・ミーティング)を行いました。これは人々のために補償(代償)を得るように努力しました。補償(代償)を意味した補償(代償)計画は払われることができるが、それは、非難は全くの人、及び、厚生省の各部門にも割り当てない事を意味します。これは動物がBSEで死亡した農民に補償するのに用いられる方法でありました。私は我々この件に関しては成功していなかったのではないかと思いました。
我々は法廷の判定に対して上訴(再審)の訴えを起こしました。上訴(再審)の訴えは成功しました。上訴(再審)はロンドンのロイヤル・コートの司法省(控訴裁判所市民部)で行なわれました。上訴は、控訴院判事ケネディと支配者司法省判事と控訴院判事チャドウィックによって行なわれました。上訴は成功でした。そして、人々は結局補償されました。
これからは、"B"ケース(歩く悩みとして知られている)問題である、これらの人々は小児期にヒト成長ホルモン(hGH)治療を受け、現在はCJDの臨床症状が現れてない人々です。この人々は常に重大ななストレス生活をしており、ある日、(何時か)起きたらCJDの症状が現れているかも知れない生活をしています。私は、多くのこのような若者たちと接触しています。
我々は、この様な人々の代わりに上訴の訴えを起こしました。これも成功しました(再び成功した)。だが、政府は上訴の訴えを起こすところでした。その時、政府が保守派から労働派に変わりました。再び、我々は厚生省新任大臣、テッサ・ジョウェル氏(夫人)との会談を求めました。この会談は非常に成功し、政府は上訴の訴えを起こす事を断念する事になったのです。そして、この結果により再び我々に法廷に戻る明瞭な道が与えられました。
1998年3月までに、全ての訴えを起こしていたCJD症例は判決がだされ、認められた症例は補償(代償)が払われました。一人の若者(青年)の生活状態に対して33万ポンドの補償(代償)が払われました。ほとんど全てのケース(症例)は現在で補償(代償)されています。
ただし、1977年7月1日以後にヒト成長ホルモン(hGH)治療を受けた数例が残っていますが、彼らも補償(代償)を受けることになります。この10年にわたって、それは非常に硬い作業でした。しかし、それはそれの上の結果を満たし、つぎ込んだ時間や努力の価値は十分でした。私は、一人の若者(青年)の補償(代償)に対して述べましたが、1人の若い女性は彼女の夫を亡くした訴えが認められて125万ポンドを受け取る事ができました。
正しくて適当であると思うことのために闘っているとき、決して降参してはなりません。時々大きな打撃を受ける事があります。それは、がっかりさせる事や妨害などがありますが、再び立ち上がって悪を制して闘わなければなりません。団体として団結したら、疎外する事はできません。それは勝利を導く結果になります。この様にして全てのオッズに対して我々は訴えを認めさせたのです。
皆様が希望するならこの発表の内容を更に詳細に述べる事が可能です。